インドネシア・
ローカル漫画の宝の山〜
コサシ氏との出会い
今回のインドネシアの取材では、コーディネートをしてくださった前山まち子先生のおかげで、
いくつかの奇跡の出会いをすることができた。その一つが、インドネシアの古いローカル漫画を復刻して出版し、 販売もしているPLUZ社との出会いである。
なんと、私が取材に来る1週間前に、マンガ賞の審査の席で、まち子先生はPLUZ社の代表と知りあい、
私(藤本)が探しているのはこれだ! と思ったのだそうだ。ほんとうにドンぴしゃで、 50年代からのインドネシアの古いローカル漫画やオルタナティブコミックスをここで見せてもらうことができた。
店内で一番目立つのは、「インドネシア漫画の父」と呼ばれるコサシ氏の筆になる大判の立派な上製本 『ラーマーヤナ』だ。『マハーバーラタ』もある。ほかにも、横長の形が珍しいスマトラの漫画本を含め、
いかにもローカルなたくさんのインドネシア漫画が復刻されているが、不思議なことに、 それらのマンガはどこか日本の劇画に似ており、『ガロ』の翻訳、
と言っても信じてもらえそうな絵柄のものも目につく。加えてそれらの作品は、 どこか古いアメコミの影響を感じさせるのである。実際、
店内にはウィル・アイズナーの作品のインドネシア語版も復刻されていたから、 インドネシアにはなんらかのルートでアメコミが注入してきていたのかもしれない
(実はこの謎は、滞在中、奇跡のような出会いによって解かれることになる)。
おまけにこの店の前には漫画専門の古書店もあって、ここで古い版の『ラーマーヤナ』 そのものとか、昔出ていた『キャンディ・キャンディ』とか、
文字通りの「お宝」をたくさん手に入れることができた。
翌日は、グラメディアの出版部門であるエレックスメディアとM&Cを取材。 出版サイクルや発行部数など具体的な数字も教えてもらい、
エレックスメディアのレトナさんには、インドネシア漫画の歴史を簡単に講義していただいた。 それによると、1935年頃からアメリカやヨーロッパの漫画が入ってきていたが、
インドネシア漫画の歴史が始まったのは、1953年にコサシ氏が 「スリアシ」という単行本を初めて発行してからである。 この作品は、インドネシアの伝説を題材とし、しかもキャラクター性が強かったことから非常に評判を呼んだ。
その後、インドネシア漫画は、コサシ・ミンタラガ・ガネス各氏を御三家として発展していく。 60年代からファンタジー漫画、ついでカンフー漫画が登場し、
70年代を経て80年代にはインドネシア漫画はブームを迎える。 しかし85年あたりから、翻訳マンガが大量に入ってくることによってローカル漫画が消えていったという。
エレックスメディアが設立され、日本マンガが初めて入ってきたのは90年で、 「キャンディ・キャンディ」「What’s マイケル」「ドラえもん」の三つが相次いで翻訳。
どれも大人気だったが、一番売れたのは「キャンディ・キャンディ」だったそうだ。 日本マンガは、「スタイルがちがう」「ストーリーがちがう」「すべてがフレッシュ」だったとレトナさんは言う。
続いてM&Cでは若い現地のマンガ家の現状を聞き、インドネシアではほんとうに充実した取材ができた。 だが、奇跡は一番最後にやってきた。
最終日、TGA書店を取材している私たちの元に、なんと、「インドネシア漫画の父」・コサシ氏が、会ってくれる、 という電話が入ったのである!もうすでに90歳を超えるコサシさんが!
私たちは喜び勇んで「パ・コサシ」(「パ」は年長の男性につける敬称)に会いに行った。
コサシさんは90歳を超えていたが、ものすごくカッコいい「男性」だった! 足は少し不自由で杖を使っているものの、頭はものすごくクリアで矍鑠としている。
何を聞いても明快な返事が返ってきて、心の底から感激してしまった。
デビュー作である『スリアシ』(1953年)は、 バンドンの出版社がインドネシアオリジナルの漫画を出そうとして漫画家を募集したのに応えて描かれた
インドネシア初のコミックブックで、最初は、楽器を売るショップの片隅に置かれていた。 しかしこれが評判を呼び、通信販売であちこちから注文が来るようになったという。
「インドネシア語で読めるアメリカンスタイルの漫画、しかも衣装や物語の舞台はインドネシア、すごい!」 というわけだ。私はここで気になっていたことを聞いてみた。
「インドネシアにはなぜアメリカンコミックの影響が強いのでしょう? コサシさんはどこでアメコミを読んだのですか?」
答えは驚くべきものだった。「当時、バナナなどを買うと新聞紙で包んでくれたんだよ。 けれどインドネシアでは新聞紙が足りず、アメリカが古新聞を送ってくれた。
そこには、動きのある、見たこともない漫画が載っていた。言葉はわからないけれど、 子供の頃からそれを夢中で模写したんだ。『ターザン』や『フラッシュ・ゴードン』なんかをね」
ルーツは「商品を包んだ新聞紙」。まるで浮世絵が欧米に伝わった時を思い出させるエピソード。 この、他に類がない、インドネシアで初めてのマンガを、漫画家になりたい若い人たちはこぞって真似し、
コサシさんのスタイルは後続の漫画家に引き継がれていく。 インドネシアの古いローカル漫画にアメコミの影響が強く感じられるのはそういうわけだったのだ。
その後、コサシさん自身は「ワヤン」の話を描くようになっていく。 「ワヤン」というのはインドからわたってきた繊細な物語で、さまざまな細かい決まりごとがあり、
コサシさんは若いころからそれが好きでずっと勉強してきた。 だから本物の「ワヤンスタイル」は自分でなくては描けないとコサシさんは言う。
60年代がインドネシアローカル漫画の黄金期だが、50年代がいちばん楽しかった、 ワヤンスタイルの漫画がいちばん好きだ…。
コサシさん=「パ・コサシ」との出会いは、氏の存在感を含めて、これまでで最も感動的な経験の一つだった。 すぐれた存在と出会うこと、それは私たちをいつも豊かにしてくれるものだ。
インドネシア漫画の父・コサシ氏
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