夏目房之介
(マンガ評論家、AIDE新聞第44号「表現と著作権」特集にて米沢氏と対談)
■米沢さん、少し早いよ
米沢嘉博さんが、もういない。
いまだに僕の脳は、その事態を受け入れていない。最後に会ったときも、まったく元気そうに煙草をぷかぷかしながら、マンガの仲間と楽しそうに酒を飲んでいたから。
いつだったろう。夏のいつか、多分手塚賞か何かのパーティの帰りだ。どこでも必ず一緒の米沢夫妻に、内記稔夫さん、呉智英さん、村上知彦さん、藤本由香里さんなど、マンガ研究関係の人たちが何となく流れて居酒屋などに入る。いつもの風景。米沢さんは、例によって博覧強記ぶりを発揮し、奥さんの質問に答えていた。
みなもと太郎さんからメールで知らせをいただき、呆然とした。今も、その時のままの気がする。
僕は米沢さんと格別仲がよかったわけではない。最初に会ったのがいつで、どこだったかも、全然おぼえていない。
70年代、区民会館みたいなとこで始まったコミケに行ったおぼえがあるので、そのとき紹介されたかもしれない。が、忘却の彼方だ。80年代、週刊朝日でコミケ取材にいって挨拶したときは、すでに知り合いだったと思う。
僕は集団を組んで何かするのは苦手で、コミケには距離のある場所でずっとやってきた。でも彼は僕にとって「どこかで共通の志をもつマンガ好きの仲間」だった。
大きく膨れ上がったコミケを代表する場所を引き受け、何十万もの人間集団のまとめ役を果たすことは、誰にでもできることではない。少なくとも僕にはできない。
一度対談で『おれは尊敬してるね。対談じゃないと言わないけど(笑)。ただ、世の中では誤解するかもね。』(AIDE新聞 2000年12月29日)といったことがある。
米沢さんはそのとき、こんなことをいった。
『基本はクロポトキンの自主独立、相互補助[ママ 扶助か?]のアナーキズムね。自分のことは自分でやるけど、困ったら助けてやるよっていう(笑)。自由にものが言えて書けないと、しょうがないから』(同上)
ああ、なるほど、と思った。そのとき、米沢さんがわかった気がした。思想が、ではなく、人となりが、である。
僕にとって、僕と彼の間のこまかな異同はどうでもいい。何しろ「マンガなんて」と苦笑されるしかない時代から、ずっと俺たちはマンガが大好きだった。それだけで充分だったし、それ以上必要なかったのだ。
そういう時代が終わりつつある。まるで、それに嫌気がさしたみたいに足早に彼は去った。少し早いよ、ヨネやん。
ご冥福をお祈りする。
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