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■「日本型ヒーロー」って何?
共信:この本の題名は、どのようにして決められたのですか?
増田:書いている途中の仮題は、『なぜ日本のアニメ・漫画は世界を制したのか?』というものだったのですが、編集の方と相談しながら変えていきました。日本の漫画やアニメに登場するヒーローのあり方というのが、西欧の文化、とくにアメリカン・コミックスとまったく違う。アメコミというのは、基本的に「知的エリートの独裁社会」を正確に反映しています。大人の男であるたったひとりの知的エリートが、世界の悪に立ち向かう。女子供や大衆は、立派な指導力を持ったその知的エリートの足を引っ張る存在でしかない。そういう世界観で成り立っています。しかし日本の場合は、老若男女、極端に言えば、動物、化け物、ロボットも含めて、ありとあらゆる生き物とそのボーダーラインにあるものに、ヒーローになる機会を与えています。そしてほとんどの場合、日本のヒーローは何人かで、お互いに強いところも弱みもあるのを補い合いながら、チームとしてヒーローである。そういうヒーロー集団と戦う相手方も、単純な悪の権化ではなく、相手には相手の論理があり、相手方の集団の中にもヒーローがいるという、善悪や正邪の価値の相対性を認識できるような形で、ヒーロー像が認識されている。こういうことは、欧米では知的エリートは知っている概念だけれども、一般大衆には絶対に言いません。なぜなら、大衆を戦争に駆り立てるとき、相手にも理があるなんていっていたら、戦争で相手を殺せませんからね。正義の味方は純然たる正義の化身。敵は純然たる悪。そういう観念を大衆に宣伝する手段として、アメリカンヒーローは機能してきたんです。ところが、さっき述べた日本のヒーロー像では、味方にいやな奴もいれば、敵方にいい奴もいる。善悪・正邪の相対性が、大衆文化の中でこれだけ広く認識されている文化媒体はほかの国にはないと思います。そういう意味で、日本型ヒーローのあり方が日本の漫画・アニメを貫くもっとも重要な核心ではないかと思ったので、日本が『世界を制する』というよりは『世界を救う』。これからは、アメリカ的な正義・善悪の考え方では世界でやっていけない。敵も味方もお互いが集団でそれぞれに特徴があるという世界観でなければおかしい。それが、戦争に行って敵を殺すことが立派だと思うような人間ではなく、敵を殺すことをためらうような人間をつくることであり、世界平和のための第一歩でもあるのではないか、という考えなんですけどね。
共信:この本全体を通じて、根底に増田さんご自身のヒューマニズムというか人間性が流れていて、「いいおっちゃんだよね、一緒に酒飲んだら楽しそうだよね、この人」っていう感じがしてくるんですよ。とても前向きなところがいいなと思いました。
助手:「日本危機論」的な本がたくさん出版されているなかで、この本はそういう意味で異色ですよね。
共信:たとえば私なんか、幼いときの刷り込みだと思うんですが、アメリカへの妙なコンプレックスがあって、それは如何ともしがたいんです。増田さんのなかにもそういうコンプレックスがあって、それへの逆説として、こういう論が出てきたのかなと思ったんですが?
増田:それはそうですね。出発点としては、日本の知識人はどうしてこんなにだらしないんだ、というところにありました。欧米の知識人は、まず第一に論理を格闘技として使いこなせる連中で、しかも主張に一本筋が通っている。日本の知識人はその時々の流行の思想を、自分の好みに合わせて欧米から引っ張ってきて主張しているだけで、自分の中に蓄積されている理論ではない。それはとてもお粗末なことだ、だから日本はだめなんだ、と長い間思っていました。ただ現実的に考えてみると、第二次大戦後の世界経済の中では、日本が一番成功した国なんですよ。日本の知識人の能力が欧米のそれより劣っているのに成功したということは、逆に言うと、本当は知識人なんかが牛耳っている社会よりも、彼らが無力なので大衆がやりたいようにやっている社会のほうがうまくいくのでは?と考えるようになったんです。そうすると日本で知識人が弱いっていうのはすごく歓迎すべきことで、知識人が弱いからこそ漫画やアニメにしても知的エリートにのっとられずに成長できた。もし日本の漫画やアニメみたいなものがアメリカで育っていたとしたら、評論する側でいえばハーバードやイェールあたりを出た人たちに独占されてしまうし、描き手の側も一流の美術学校を優秀な成績で出たような連中にのっとられていたと思うんですね。日本の場合は知的エリートが弱体だからこそ、いまだに学歴も経歴も関係なく、コミケットで同人誌を出したらそれが売れてプロになれるような社会が続いている。経済にしても、日本の大企業の社長なんて、欧米の水準でいえば平社員程度の給料しかもらっていないのに、ちゃんと社長業やってるんですよ。しかも会社側が社員ひとりひとりの意見を吸い上げる制度があって、みんなでわいわいとやっていた。結果的には、日本はそういう社会だからこそうまくいっていたんです。欧米の大衆というのは、たとえば工場の工員だと、目の前でラインが混乱しそうだと思っても、そのラインをストップする権限は与えられない。日本では臨時工でも、その時の判断でラインをストップできる。つまり、はるかに風通しがよくて、みんなの自発性を生かしながらやっていける世の中が、日本にはできています。でも欧米は、いまだに古いタイプの知的エリート独裁社会が続いている。逆に知的エリートが勝負する分野は、いまだに日本は弱いです。外交とか軍事とか金融とか、広告宣伝とか司法とか、みんな弱い。でもそれが弱くて実害があるかというと、大してないんですよ。最先端製品なども、原理の発明は欧米でなされていますが、それをどう応用して大衆にとって使いやすいものにしていくかという面では、日本が圧倒的に有利です。
助手:日本はよく、オリジナルのアイディアがなく、欧米の基礎研究の上に乗っかってエンドユーザー向けの商品を作ってしまう。それが日本の弱点だ、と言われてきましたけど?
増田:欧米では、オリジナリティというものは一部の知的エリートの頭の中にしかないものだと決めつけられているんです。日本や東アジアでは、オリジナリティというものはひとりの頭の中に存在するものではない。何人かが一緒に作り上げていくものでもある。そういう発想だと思うんです。具体的には、漫画家のあり方として「CLAMP」のようなのは、おそらく欧米では絶対に成立しないと思います。4人が平等に知恵も技術も画力も出し合って、ひとつの創作主体になっている。欧米なら、グループの中のひとりがスターになって、そのほかはその人の手足としてこき使われるだけになってしまうと思いますよ。集団的なオリジナリティという面では、日本のそれは大変にすごいと思います。たとえば、鉄道というイギリスで誕生したテクノロジーを、ネットワークとして完成させたのは日本人なんです。欧米では車が普及してから鉄道はどんどん衰退していくんですが、日本はそうではなかった。欧米の鉄道というのは「乗り換え」は前提として作られておらず、始発と終点の間を行き来しているだけです。東京のように2回くらい乗り換えればひとつの都市圏のなかでどこへでも行ける、という仕組みには作られていません。ネットワーク性のある鉄道網は、明らかに日本が発明したんです。しかも、だれか特定の人が思いついたわけじゃなくて、みんなが知恵を持ち寄ったら結果としてこうなっちゃった。劣等感を抱く必要などまったくなくて、むしろたったひとりの頭の中でオリジナリティが成り立つなんていうことは、この先どんどんありえなくなる。最先端のリサーチなども、チームを組んで行うような場合には、日本人をはじめとした東アジア人のほうが有利で、欧米の方が不利になってくると思います。
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